皆さん、こんにちは。大田区議会議員の佐藤なおみです。
私たちの住む大田区の馬込・山王エリアを散策していると、「〇〇(文豪の名前)旧宅跡」といった案内板を目にすることがありますよね。川端康成、北原白秋、室生犀星、山本周五郎…。なぜ、これほど多くの有名な作家や芸術家たちが、この馬込の地に集い、暮らしていたのでしょうか。
今日は、大正の終わりから昭和の初めにかけて花開いた「馬込文士村」の歴史と、文豪たちがこの地を愛した理由について、紐解いていきたいと思います。
すべては、あの大震災から始まった
文士村が形成される最も大きなきっかけ、それは1923年(大正12年)に発生した関東大震災でした。
都心部が壊滅的な被害を受ける中、この馬込エリアは比較的被害が少なく、また地盤が固い高台であったことから、安全な暮らしを求める人々が移り住み始めました。その中には、多くの作家や芸術家たちが含まれていたのです。
彼らが新天地として選んだ当時の馬込は、まだ畑や雑木林が広がる、のどかな田園地帯でした。都会の喧騒から離れた静かな環境は、創作活動に集中したい彼らにとって、まさに理想的な場所だったのです。
都心に近く、仲間がいる安心感
のどかな田園風景が広がる一方で、省線(現在のJR京浜東北線)の大森駅から都心へのアクセスが良かったことも、馬込が選ばれた大きな理由です。
出版社との打ち合わせなどで都心に出やすく、それでいて家賃は手頃。この絶妙なバランスが、特に若い作家たちを惹きつけました。
そして、一人が住み始めると、その友人が、さらにその知り合いが…という形で、自然発生的に文化人のコミュニティが生まれていきました。中でも、作家・尾﨑士郎の家は「馬込放送局」と呼ばれるほど、多くの仲間たちが夜な夜な集う交流の拠点でした。彼らはお酒を酌み交わし、麻雀に興じ、文学を熱く語り合うことで互いを高め合い、そこから新しい作品が生まれていったのです。
今に息づく、文士村の面影
時代は移り、かつての田園風景は住宅街へと姿を変えました。しかし、今もこの街を歩けば、文士村の面影に触れることができます。
大田区によって整備された旧宅跡の案内板を辿れば、誰がどこに住み、どのように交流していたのか、当時の人間模様に思いを馳せることができます。また、大田区立郷土博物館や尾﨑士郎記念館では、彼らの貴重な原稿や愛用品が展示されており、その息づかいを間近に感じることが可能です。
何気なく歩いているこの道も、かつては名だたる文豪たちが、次の作品の構想を練りながら歩いた道なのかもしれない。
そう思うと、いつもの散歩が、少しだけ特別な時間になる気がしませんか。
大田区議会議員 佐藤 なおみ
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